白つつじの会タイトル

明治から昭和初めにかけて活躍した文人 生田長江について紹介します。
※「白つつじ」とは、生田長江が妻の死後、悲嘆の中詠んだ詩の題名。率直にその心情が表され創作のきっかけにもなった作品です。

   
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生田長江年譜1(1882~1906)

年齢事項出来事
1882
(明治15)
0歳日野町貝原に生まれる
(三男、弘法大師にちなんで弘治と命名)
1889
(明治22)
7歳武庫簡易小学校(江府町)に入学
1890
(明治23)
8歳根雨簡易小学校(日野町)に転校大日本帝国憲法発布
1891
(明治24)
9歳秋、日野郡高等小学校(日野町)に入学第1回帝国議会
1895
(明治28)
13歳日野郡高等小学校を卒業後、農業を手伝いながら延暦寺(日野町根雨)の松本大典和尚に漢籍を学ぶ日清戦争(1894~95)
1896
(明治29)
14歳次兄・貞二郎のあとを追って大阪へ
1897
(明治30)
15歳大阪桃山学院中学(大阪府)に編入学
1898
(明治31)
16歳ユニバーサリスト協会でキリスト教の洗礼を受ける
このころ徳富蘇峰、内村鑑三を愛読
1899
(明治32)
17歳青山学院中学5年に編入学
1900
(明治33)
18歳第一高等学校(現在の東京大学)文科へ入学
1902
(明治33)
20歳馬場狐蝶を訪ね、以後師事する
同級の森田草平らと回覧誌「夕づつ」を出す
八幡製鉄所操業開始(1901)
1903
(明治36)
21歳「明星」に星郊生、生田星郊等の名前で投稿
東京帝国大学(現・東京大学)哲学科に入学
1905
(明治38)
23歳次兄・貞二郎(弁護士)米子にて死す日露戦争(1904~05)
1906
(明治39)
24歳馬場狐蝶・上田敏らの雑誌「芸苑」に参加し、長文の「小栗風葉論」を書いて注目される
上田敏に「長江」のペンネームをもらう
桃山学院時代 学生時代
大阪桃山学院時代の長江(明治32年頃)
後列の左が長江。大阪本町橋で写す。学友の別れの記念写真か。
学生時代の長江(明治33~36年頃)
左側が長江。東京浅草で撮影。
(写真提供:生田夏樹氏)(写真提供:生田夏樹氏)
生田長江年譜2(1907~1920)→----

生田長江年譜3(1921~1958)→----

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白つつじの会(生田長江顕彰会)事務局
  〒689-4503  鳥取県日野郡日野町根雨129-1
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