生田長江は郷土山陰の生んだ偉才です。そしてそれ以上に、日本の思想史、文芸史に大きな足跡を残した一人でもあります。
1882年(明治15年)、鳥取県日野町貝原に生まれた生田長江は、若くして上京、一高、東京帝大に学び、日本人作家を対象とした初の本格的作家論「風葉論」によって、当時の文壇を驚かせました。
大正期、若き文人たちの座右の書となった「ツアラトゥストラ」の翻訳をはじめ、「ニーチェ全種」の個人全訳を果たすなど、翻訳家としても大きな業績を残しています。
平塚らいてう等の女性解放運動の端緒を開いたのも長江でした。青鞜社の結成時、機関誌の発行を強く勧め、「青鞜」という清新な名前を与えたのもやはり長江でした。
明治末の文壇で一躍寵児となった長江は、後進の才能発掘と指導に格別の情熱を傾けました。長江の推挽によって世に出た文人には、佐藤春夫、生田春月、三木露風、島田清次郎、赤松月船、伊福部隆彦、藤田まさと、高群逸枝、山川菊枝、住井すゑ、浜田糸衛などがあり、当時の平板な文壇に警鐘を鳴らしました。
時流におもねることなく、常に時流の先を見据え、俗流に迎合せず戸口を貫いた長江はまた、大の論争家でもありました。師にあたる漱石や鴎外をはじめ、白樺派や新感覚派に対する鋭い批評などは、党派的立場に拠らない批評家長江の面目躍如たるもので、わが国近代文学の一つの欠陥を背後から証明したものといえます。しかし、妥協のない生一本のゆえに、誤解や非難を免れなかったことも否定できません。
晩年は深く仏教に帰依し、創作「釈尊」を執筆、その第三部までを書き進め、未完のまま54才の生涯を閉じました。病のために体の自由が利かなくなった晩年もなお、執筆への情熱、時代に対する関心を失うことの無かった長江の一生は、人が生きる上での「最上のもの」を求め続けた、刻苦奮励の魂の旅に擬することが出来ましょう。
昭和30年代になって、出身地である日野町の遠藤一夫氏などにより、没後初の生田長江顕彰の事業が行われました。今また、長江に光を当てるべく、新たな動きが始まりました。
1997年日野町での長江についての講演会に端を発し、2002年の国民文化祭でのシンポジウム・展示・また鳥取県文化振興財団事業として長江戯曲の「ドラマリーディング」・2006年には、鳥取県主催の「とっとりの文化芸術探訪」事業にも取り上げられ、シンポジウム・展示会が開かれましたが、いまだ正当な評価に至っていません。
そこで、平成19年度は昨年の生田長江顕彰事業に関わった有志が集い、「白つつじの会」生田長江顕彰会を結成し、新たに会員を募り、会員各位の浄財と鳥取県からの助成金を合わせ、顕彰事業を継続したいと考えております。
私たち「白つつじの会」会員は、日本近代の激動期を生き抜いた長江の思想が、混迷を深める現在に新たな指針としてよみがえりうることを確信し、長江顕彰の事業を続けて参る所存です。
当会の活動に、なにとぞ皆様のご賛意とご協力を賜りますよう末筆ながらお願い申し上げます。
「白つつじの会」生田長江顕彰会
会長 河中 信孝
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