明治から昭和初めにかけて活躍した文人 生田長江について紹介します。※「白つつじ」とは、生田長江が妻の死後、悲嘆の中詠んだ詩の題名。率直にその心情が表され創作のきっかけにもなった作品です。
皮肉と諧謔に富んだ批評家という反面で、長江の人柄は、真面目で折り目正しく「衣冠束帯の人」と弟子にも語られています。しかし実際には、ピアノを弾き、安来節を歌い、絵筆を取るといった多趣味でユーモアのある人物でもありました。面倒見のよさもあり、成美女学校や青鞜の若い女性たちから慕われました。
36歳のとき妻・藤尾がわずか30歳で5歳の一人娘まり子を残し病没。晩年は、自身も病気に苦しむなかで、血縁者・弟子などを養い、経済的には決して楽でない状況でしたが、それを表に出すことなく、家長としての責任を果たしました。