白つつじの会タイトル

明治から昭和初めにかけて活躍した文人 生田長江について紹介します。
※「白つつじ」とは、生田長江が妻の死後、悲嘆の中詠んだ詩の題名。率直にその心情が表され創作のきっかけにもなった作品です。

   
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長江と青鞜の女性たち

桃山学院時代

 長江は明治39年に東京帝国大学を卒業し、翌年成美女学校の英語教師となりました。同年、長江の発起により校内に閨秀文学会が開設され、平塚明(はる)(らいてう)、青山(山川)菊栄ら15、6人が聴講するようになります。

 長江のすすめもあり、らいてうは、明治44年「元始女性は太陽であった」の叫びのもとに、女性の自我の解放を目的とした文芸誌「青鞜(せいとう)」を創刊、女流識者の総結集の場となり゛新しい女゛の出現と騒がれます。

 「青鞜」の誌名は長江が命名したもので、これは18世紀半ばごろロンドンのモンタギュー夫人のサロンに集まって文学を論じていた婦人たちに対して、嘲笑的に使われていた'Blue Stocking'の意から来ており、それまで「紺足袋党(こんたびとう)」と訳されていましたが、長江により一躍洗練された名前となって、後世に伝わることになります。

 1911年6月、長江のはからいで「読売新聞」に発刊準備中の記事が載り、9月1日「青鞜」創刊号が発刊されました。表紙は、長沼智恵子(のち高村光太郎夫人)が担当しました。

 創刊号は、予想を上回る反響があり、一年後の青鞜社主催の講演会には、満員御礼の千人が集まったといわれます。「青鞜」が大胆な自我の主張と女性だけで独立の言論の場を持ったことは、社会に大きな影響を与えました。そして、長江は「青鞜」や女性解放運動にかかわった、平塚らいてう、山川菊栄、高群逸枝、童話作家の浜田糸衛など多くの女性たちを世に送り出しています。

<写真説明:「青鞜」の女性たちと(明治44年頃) 長江の隣が平塚らいてう、右端が妻 藤尾(写真提供:生田夏樹氏)>


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